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何気なく暮らしている日々の中にある『アート』を紹介していくブログ。
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高校(デザイン科)時代の友人に会いに。

『ホサピンズ』
作者から生まれたアルファベットのキャラクターたち。
http://hosapinz.web.fc2.com/

高校というか、彼女とは幼稚園から一緒だった訳ですが...
ちゃんと話すようになったのは高校卒業後3〜4年経ってから。
それと、小学校3年生の時に仲良かったのは覚えていたり。

こうやって同郷の友人の活動を見に行けることが、とても幸せ。
そして、そんな誇らしい友人を今の友人と繋げられることが。

デザインフェスタを訪れて、一緒に来てくれた友人からポツリと出た言葉。
『生きていることがアート』
本当にそう思う。
表現という言葉の大きな枠組みの中に『生きる』という言葉が
含まれていて良いと思う。
それを捨てて生きている人は多いけれど。

そんな中でも、モノを描く(作る)という表現の形を続ける数少ない友人。
自分もそういう人種の端くれとして想像するけれど、
きっと色んな迷いや苦しみがあって、
そうやって生まれて来たのが「ホサピンズ」なんだと思う。

『ホサピンズとは、作者あつみきよ科から生まれたアルファベットキャラクターたちの総称です。地球のどこかに住んでいる妖精の一種である、という設定があったりなかったりしながら。
人間のような形をしていたり、私たちからすると妙な見た目をしていたりする子もいるけれど、
彼らはそれを気にすることなく今日も色んなことを感じながら過ごしています。
小さなことを気にしたり、大きな夢を持っていたり、たくさん笑ったり、少しうつむいたり
いつでも笑顔は難しくたって、ゆったりゆったり彼らのペースで生きています。』

こんな風に言うと少し偉そうで嫌だけれど
彼女から生まれたキャラクターたちは(ホームページでも見られるけれど)、
1人ひとりに命が吹き込まれていて、ちゃんと人生があって、
だから本当に生き生きしている。

普通に生きているといつの間にか忘れてしまうこと、
おんなじように見えても、みんながみんな一緒だなんて大間違いで
見た目だけじゃなくって心の形だって違う。
その違いに気付かない人たちがいっぱい居て、
その違いに苦しんでいる人たちがいっぱい居る。
だけど、
気にしなくていいんだよ、と聞こえてくる気がする。
それは、ただの『違い』で。それでいいんだよ、と。

そんなことを彼らを通して気付かされる。

だからついつい、自分のイニシャルのキャラクターに親近感を覚えてしまったりして。

Rぴょん先輩】:3年生・手芸部
・超超超カリスマ美脚モデル、芸術家肌で超絶ナルシスト、将来の夢は世界に通じるブランドを立ち上げること
・言うことがいちいちぶっ飛んでいるが彼が言うと妙な説得力がある、言葉も態度もデカイがそれに伴う実力があるため反感は買わないスゴイ人


僕も、Rぴょん先輩みたいにならなくちゃあなぁ...

『ホサピンズ』
浜松を拠点に活動中 出展・活動情報は
http://hosapinz.web.fc2.com/
https://www.facebook.com/Hosapinz
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『カルデラ』は、統合失調症による分裂情動障害に苦しんでいた父からヒントを得て作った。
妄想の中にいるとき、父は土星の輪の上で踊ったり、天使と会話したりして、悪魔から逃れようとしていた。父は幻想的な世界と怪奇じみた世界の両方に住んでいたが、ぼくたちはそれを見ることができない。
まわりの人々は、父の現実に対する認識が違うため、やみくもに薬を与え、自分たちの矮小な文化にむりやり押し込めようとして、まったく理解しようとしなかった。
父の中にある世界も、素晴らしい世界の1つなのかもしれないのに。
『カルデラ』は、父だけでなく、心の奥底で新世界を創造する、闇の世界と行き来できる人々全てに敬意を表するために作った。
— EVAN VIERA —


正直 作品が良かったとか、そういう話ではない。
この文章を載せたかった。
『自分たちの矮小な文化にむりやり押し込めようとして、まったく理解しようとしなかった』
精神病や精神障害に対する理解がまだまだ足りていない、と感じる。
確かに、社会問題として『鬱』という言葉が目に入る機会も増えた。
そのせいもあって、「簡単に鬱病になれる」社会にもなってしまった。
だからこそ、というのもあるだろう。
加えて、もともと心の問題は理解されづらかったのも相俟って
健康な人たちから、より醜い言葉が吐き出されるようになった。
まただ。
また、外面だけが社会に広がって、本当に大事な中身は
誰も気にとめやしない。
社会に『鬱』という言葉だけが広がって、
『そんな人たちを大事にしよう』という言葉だけが広がって。
『心の相談所』みたいな、形だけの制度が設置され、
結局、問題は解決されないまま。

そもそも私にとっては、EVANのいうように『世界の1つ』という
認識の方がしっくりくる。
『健康な人たち』なんて 言葉は、そういう問題を
真に理解できていないと思う人たちにわかりやすく伝える為だ。
強いとか、弱いとか、カテゴライズすることで
社会的に『強い』人間が笑える世の中。
そりゃそうだ、社会に適合できない人間なんだから、
排除されて当たり前なのだ。
けれど、少し考えて欲しい。
どんなにイカレていたって、そいつが金持ちのボンボンで
どっかの会社の社長になれれば、そいつは社会に適合できる。
同じようにイカレてる人でも、そのせいでアルバイトもできなければ
社会不適合者の烙印を押される。
社会に適合できれば健康、できなければ病気。
極端に言えば、そういうことだ。

それが間違っていると思うか否かは、受け取る側の問題だと思う。

私たちを動かす脳の中で
アドレナリンみたいな神経伝達物質が出る量が少ない、多い。
それは花粉症とどう違うのだろう?
「喘息持ちなんです」
「肌が 荒れやすい体質なんだよね」
「君は本当に肌が白いね」
どう違うのだろう?
「あいつはアドレナリンの量が多くて、いつも元気で
 やる気に満ちあふれてて、仕事のできる、異常野郎だ!」
「彼は寝る時間も少なくて平気だし、休まなくても大丈夫だって。
 病気だ!精神障害だ!精神病院に行け!」
聞いたことがない。

ここまで話してきたことは、精神障害の話。
どこからが病気なの?という問題提議。
今のところ、社会的には、その社会に適合出来るか、出来ないか。

EVANの父親のような精神病は話が少し違う。
彼の父親のような問題を抱える、ということに関しては
肯定も否定もし難い。
『精神の世界』に生きることが美しい、などという気は全く起きない。

けれど共通して言えることがある。

『一般的に』とか『常識的に』とか『社会的に』とかいう『それ』は、
人間が集まれば、必然的に自然な多数決によって出来上がるだろう。
『それ』は、そういうものだ。
EVANのいう『文化』だ。
神様が決めたような絶対的概念でもなんでもない。
おんなじような、『ただ』の人間が集まって、
自分たちの生きやすいように、都合のいいように出来た。
ただそれだけのものだ。

「『それ』が全てだ!」と、「弱いんだ!」と、鼻で笑う人がいる。
「『それ』が全てだ…」と、「弱いんだ…」と、心を病む人がいる。

私は鼻で笑えない。

http://karapaia.livedoor.biz/archives/52124335.html
すべての可能性は
無限の広がりを持っている。
私のいる現在から
木々の枝のように
根のように
広がっている。
そのことを認識した時、
すべての夢は叶えられる。
ということが解るだろう。
君が一本だと思っている
その道は、
君がそこしか見ていないだけにすぎない。
盲点を外せ。
可能性は無限だ。

「嘘つき」と言われたら、「そうかもしれない」と答える。
僕の言っていることは、それくらい危ういことでもある。
だから1つ、理解しておいて欲しいことがある。
僕の言っていることは『考え方』だと言うことだ。
決して『答え』ではないということだ。
僕は本当に「可能性は無限だ」と思っている。
なろうと思えば宇宙飛行士やサッカー選手にさえなれる。
と半ば本気で思っている。
これは『考え方』の問題だ。
その『考え方』の『強さ』が重要なのだ。
僕の未来の枝の先には、あらゆる夢がある。
それはすべて叶えられる可能性がある。
選択は自由だ。
そう、選択の自由。
人は、自分の枝に限界があると思っている。
「現実が〜」などと言って、自ら可能性を減らす。

さて、左目を閉じて(又は手で隠して)ほしい。
そうして右目で+の記号を見る。
視野の端には●があると思う。
そのままゆっくり、+だけを見続けながら
画面に顔を近づけていくと、ある瞬間、
視覚の端にあるはずの●が消える。
それが盲点(スコトーマ)だ。
小学生くらいの時に、理科か何かで学んだ気もする。

僕たちは、常日頃から、この見えない状態にあるんだと思う。
今やったことの逆だ。
少し動けば、見えてくるはずの●。

何気なく見た時計がぞろ目になっていることが続いて、
「何か意味があるのでは?」と不思議な気持ちになることがある。
それはもしかしたら、本当に何かの啓示かもしれない。
けれど、僕たちが時計を見る機会の多さを考えてみると、
案外、不思議なことではない気がしてくる。
無意識のうちにみた時計の時間は忘れて、記憶に残る時間は
しっかりと覚えているだけかもしれない。

友人の顔を見て「こんな所にほくろあったっけ?」と思い
聞いてみると、「ずっと前からあるよ」と言われる。

あるファッションに興味を持って、街へ出てみると、
不思議なくらい、そういったファッションが街に溢れている。
自分が流行の最先端にいるような気がしてくる。
本当は以前からそういうフッションの人たちは街に居たのだ。
興味を持って、初めて見えてくる世界。
人間というのは興味のあるものしか見ていない。
それがスコトーマだ。

それを人は『現実』という。
見えていないフリをしたり、あるいは本当に見えていなかったり。
「私の人生にはAとBの選択肢しかない」と思い込んでいる。
夢を語れば「現実はそうはいかない」という。
果たしてそれは『現実』だろうか?
自分の見たいものしか見えない世界が、
そこに在るはずものが見えていない世界が本当に『現実』だろうか?

僕はそうは思わない。
あらゆる未来があって、選択は自由だ。
今から寝る未来、朝まで起きている未来。
選択は自由。
だからこそ、その先には、あらゆる未来の可能性が
あっていいはずじゃないのか。

その選択の自由を奪っているのは『現実』ではなく『自分』だ。

『現実』を言い訳にするのは勝手だ。
けれど、『あなたの視野で見えるものしか見えないそれ』を
『現実』と呼ぶのは少々乱暴じゃないか。
●が見えないなら少し顔をずらせばいい。
『本当の現実』はあらゆる可能性を持ってそこにある。

それに気が付けば、
僕が「なんにだってなれる」と言った意味が少しは伝わると思う。
それが僕の言った『考え方』だ。
選択の自由から生まれる、可能性の無限。
そういう『考え方』から見えてくる世界がある。
だから、その『答え』である世界を導き出すのは
僕ではなく、あなた自身だ。

自分一人で生きてる訳じゃない?
そんな自分勝手に簡単に自由にはなれない?
人との関係があったって、なんたって『無限』だ。
ちょっとやそっと減ったくらいじゃ
『無限』はなくならないよ。


photograph Tsubasa Akimoto

過去に何度か、『時間』というものに対する意識を変えてきた。
とりわけ『無限』という言葉について考えることは面白い。

友人が提唱した『休日=無限』という概念は僕の時間に対する
意識を大きく変えた。
自分がそう思う限り、時間というものは無限である。
「翌日が仕事だ」という憂いと共に布団に入るよりも、
今から眠る、という素敵な時間を無限だと考える。
友人との楽しい休日も、その幸せな時間が無限であると考える。
すると世界は驚く程、広がって見える。
「いつか終わりが来る」そんなことは誰だって知っている。
それはもう絶対的平等だ。
だからこそ、意識を広げた方が素敵で幸せである。
絶対的時間の中で、より幸せに過ごす方法。
「馬鹿な」と思うかもしれないが、人のイマジネーションは偉大だ。
色んなことが楽しいものに変わる。
それは子供を見ればわかる、と思う。

いつか、友人と2人で人の行き交う交差点を眺めていた時のこと、
4歳くらいの男の子が点字ブロックを指差して、
「あ、線路だ!」と叫ぶやいなや、「ガタンゴトン」と
点字ブロックに飛び乗って出発進行した。
僕たちは「なんというイマジネーションだろう」と感嘆したのだった。

もしかしたら、僕たちも一度は持っていたものなのだ。
いつの間にやら忘れてしまったもの。
その割に中途半端に憧れを持っているもの。
心のどこかにしまって「ない、ない」と嘆く。

話は逸れたが、つまり、時間というものは無限になる。
すると、可能性も無限になる。
という話はまた別の機会に語ろうと思う。


最近、やっと、『自分がどう在りたいか?』ということを
意識するようになってきた。
嬉しいことに、それは自分が中高生の時に思っていたことに
似ている。根本は何も変わっていないようだ。
どんなキッカケがあったかは覚えていない。
『映画の主人公のように世界を救うヒーローでありたい』
だから、その頃はMr.childrenの『HERO』という曲に
全く共感できなかった。
そもそも、あの曲が親から子へのラブソングだと知ったのは
ついさっきだ。
僕には子供が居ないので、それを踏まえての感想は割愛する。
ただ、今はあの頃とは少し違う価値観を持って生きている、
ということだけは付け加えておこう。

余裕がなくなると、本当に僕は他のことを考えられなくなる。
こんな状態では人を幸せになどできないということを、
痛感させられた。
まずは自分が満たされて初めて、人を助けることが出来る。
支え合うというのはそういうことの往復のように思う。
自分を削って人を幸せにしても、そのうち自分が消えてしまう。
それでは、ずっと人を幸せにし続けることなんてできない。
僕の目指す所はそんなところだ。
一生をかけて、誰かを助け続けたい。

そう思った時、僕に足りないものがわかった気がした。
人を助ける術が僕にはない。
ただ、その美しい結果だけを求めて、技術を習得することから
逃げ続けてきた。
何もせずに、気持ちだけで結果を求めてきた。
「こうあればいい」「こうでなくては」と、それが勝手に叶うことを
期待しているような愚か者だった。

やっと解った気がする。
こんななりで、恥ずかし気もなく言おう。
やはり僕は、ヒーローでありたい。

僕の大好きな映画『スパイダーマン』の中にこんな言葉がある。

『大いなる力には、大いなる責任を伴う』

僕はまだ、大いなる力さえ持っていない。
プロフィール
HN:
Ryosuke Watanabe
HP:
性別:
男性
自己紹介:
自分や友人の周辺で起こる日々のアートに注目。
面白いこと、紹介していきます。
興味を持った方、感想等はコメントへお願いします。
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