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何気なく暮らしている日々の中にある『アート』を紹介していくブログ。
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『カルデラ』は、統合失調症による分裂情動障害に苦しんでいた父からヒントを得て作った。
妄想の中にいるとき、父は土星の輪の上で踊ったり、天使と会話したりして、悪魔から逃れようとしていた。父は幻想的な世界と怪奇じみた世界の両方に住んでいたが、ぼくたちはそれを見ることができない。
まわりの人々は、父の現実に対する認識が違うため、やみくもに薬を与え、自分たちの矮小な文化にむりやり押し込めようとして、まったく理解しようとしなかった。
父の中にある世界も、素晴らしい世界の1つなのかもしれないのに。
『カルデラ』は、父だけでなく、心の奥底で新世界を創造する、闇の世界と行き来できる人々全てに敬意を表するために作った。
— EVAN VIERA —


正直 作品が良かったとか、そういう話ではない。
この文章を載せたかった。
『自分たちの矮小な文化にむりやり押し込めようとして、まったく理解しようとしなかった』
精神病や精神障害に対する理解がまだまだ足りていない、と感じる。
確かに、社会問題として『鬱』という言葉が目に入る機会も増えた。
そのせいもあって、「簡単に鬱病になれる」社会にもなってしまった。
だからこそ、というのもあるだろう。
加えて、もともと心の問題は理解されづらかったのも相俟って
健康な人たちから、より醜い言葉が吐き出されるようになった。
まただ。
また、外面だけが社会に広がって、本当に大事な中身は
誰も気にとめやしない。
社会に『鬱』という言葉だけが広がって、
『そんな人たちを大事にしよう』という言葉だけが広がって。
『心の相談所』みたいな、形だけの制度が設置され、
結局、問題は解決されないまま。

そもそも私にとっては、EVANのいうように『世界の1つ』という
認識の方がしっくりくる。
『健康な人たち』なんて 言葉は、そういう問題を
真に理解できていないと思う人たちにわかりやすく伝える為だ。
強いとか、弱いとか、カテゴライズすることで
社会的に『強い』人間が笑える世の中。
そりゃそうだ、社会に適合できない人間なんだから、
排除されて当たり前なのだ。
けれど、少し考えて欲しい。
どんなにイカレていたって、そいつが金持ちのボンボンで
どっかの会社の社長になれれば、そいつは社会に適合できる。
同じようにイカレてる人でも、そのせいでアルバイトもできなければ
社会不適合者の烙印を押される。
社会に適合できれば健康、できなければ病気。
極端に言えば、そういうことだ。

それが間違っていると思うか否かは、受け取る側の問題だと思う。

私たちを動かす脳の中で
アドレナリンみたいな神経伝達物質が出る量が少ない、多い。
それは花粉症とどう違うのだろう?
「喘息持ちなんです」
「肌が 荒れやすい体質なんだよね」
「君は本当に肌が白いね」
どう違うのだろう?
「あいつはアドレナリンの量が多くて、いつも元気で
 やる気に満ちあふれてて、仕事のできる、異常野郎だ!」
「彼は寝る時間も少なくて平気だし、休まなくても大丈夫だって。
 病気だ!精神障害だ!精神病院に行け!」
聞いたことがない。

ここまで話してきたことは、精神障害の話。
どこからが病気なの?という問題提議。
今のところ、社会的には、その社会に適合出来るか、出来ないか。

EVANの父親のような精神病は話が少し違う。
彼の父親のような問題を抱える、ということに関しては
肯定も否定もし難い。
『精神の世界』に生きることが美しい、などという気は全く起きない。

けれど共通して言えることがある。

『一般的に』とか『常識的に』とか『社会的に』とかいう『それ』は、
人間が集まれば、必然的に自然な多数決によって出来上がるだろう。
『それ』は、そういうものだ。
EVANのいう『文化』だ。
神様が決めたような絶対的概念でもなんでもない。
おんなじような、『ただ』の人間が集まって、
自分たちの生きやすいように、都合のいいように出来た。
ただそれだけのものだ。

「『それ』が全てだ!」と、「弱いんだ!」と、鼻で笑う人がいる。
「『それ』が全てだ…」と、「弱いんだ…」と、心を病む人がいる。

私は鼻で笑えない。

http://karapaia.livedoor.biz/archives/52124335.html
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http://vimeo.com/takumamatsuura/


video Takuma Matsuura

『変態』である。褒め言葉である。
彼に直接「変態か?」と聞いたことはない。
本物の変態は「変態だ。」と言われると否定することが多い。
彼はどちらにしても、『変態』である。僕はそう思う。
彼の作品を見ていて「変態とはどういうものか」という謎の一端に
触れたような気がする。それは、振り幅の広さだ。
振り幅とはつまり、人間の大きさ、と捉えても良いかもしれない。
彼の映像をいくつか見ていて、その空気感の違いに一瞬違和感を覚えた。
映像の質とか編集の仕方という意味ではない。そういう見方をすれば
彼の映像作りの一貫性を見ることはできる。
そうではなく、もっと単純な、見ているものの違いだ。
彼の内包しているものの多さが、作品ひとつひとつに現れているように思う。
そしてまた(矛盾しているような言い方かもしれないが)すべての作品を
振り返ってみると、今度は一貫した彼の心のようなものが見えてくる。
陳腐な表現をすれば、暖かさを感じる。
そういった慈愛のような感覚が伸びれば伸びる程、その人を中心に
逆側にある奇抜な感覚も広がっていくのではないだろうか。
つまり『変態』とは振り幅の広い人間のことなのではないか。
いつにも益して、哲学的な話になってきた。
単純に言えば、僕の周りで僕が「変態だな」と思う人は「出来た人」が多い。
彼もその中の一人だ。いつも笑顔で、そして礼儀正しくしっかり者だ。
人から愛されるキャラクターであるように思う。

そういった彼の内面的な暖かさが作品から伝わってくる。
人とは違う視点の中にも、大切なことを忘れていない、芯が見える。
ネットの普及、安価で良質な機材の普及によって、
誰もが映像を作れる時代になった。YOUTUBEやVimeoによって
世界中のクリエイターが「タダ」で優れた映像作品を公開する時代。
難しい線引きの中で、彼はマイペースに歩いていく。

自分の五感で感じ取ったものを内包し、肯定し、胸を張って。

そんな生き方が、「彼が、笑顔を絶やさない」理由じゃないだろうか。
そして、最終的に人の心に残るの作品というのは、そういった『人から
生まれる「何か」』を持った作品なんだと思う。
メールでの会話の所々で彼は「がんばろ!!」「お互い高めあっていこー☆」
とエールをくれる。
言葉のない映像の世界で彼のそんなエールを皆が受け取れるようになるまで
そう時間はかからないだろうと思う。

変態の人の良さを暴露することは営業妨害なのか?と思いつつ。
プロフィール
HN:
Ryosuke Watanabe
HP:
性別:
男性
自己紹介:
自分や友人の周辺で起こる日々のアートに注目。
面白いこと、紹介していきます。
興味を持った方、感想等はコメントへお願いします。
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