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何気なく暮らしている日々の中にある『アート』を紹介していくブログ。
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すべての可能性は
無限の広がりを持っている。
私のいる現在から
木々の枝のように
根のように
広がっている。
そのことを認識した時、
すべての夢は叶えられる。
ということが解るだろう。
君が一本だと思っている
その道は、
君がそこしか見ていないだけにすぎない。
盲点を外せ。
可能性は無限だ。

「嘘つき」と言われたら、「そうかもしれない」と答える。
僕の言っていることは、それくらい危ういことでもある。
だから1つ、理解しておいて欲しいことがある。
僕の言っていることは『考え方』だと言うことだ。
決して『答え』ではないということだ。
僕は本当に「可能性は無限だ」と思っている。
なろうと思えば宇宙飛行士やサッカー選手にさえなれる。
と半ば本気で思っている。
これは『考え方』の問題だ。
その『考え方』の『強さ』が重要なのだ。
僕の未来の枝の先には、あらゆる夢がある。
それはすべて叶えられる可能性がある。
選択は自由だ。
そう、選択の自由。
人は、自分の枝に限界があると思っている。
「現実が〜」などと言って、自ら可能性を減らす。

さて、左目を閉じて(又は手で隠して)ほしい。
そうして右目で+の記号を見る。
視野の端には●があると思う。
そのままゆっくり、+だけを見続けながら
画面に顔を近づけていくと、ある瞬間、
視覚の端にあるはずの●が消える。
それが盲点(スコトーマ)だ。
小学生くらいの時に、理科か何かで学んだ気もする。

僕たちは、常日頃から、この見えない状態にあるんだと思う。
今やったことの逆だ。
少し動けば、見えてくるはずの●。

何気なく見た時計がぞろ目になっていることが続いて、
「何か意味があるのでは?」と不思議な気持ちになることがある。
それはもしかしたら、本当に何かの啓示かもしれない。
けれど、僕たちが時計を見る機会の多さを考えてみると、
案外、不思議なことではない気がしてくる。
無意識のうちにみた時計の時間は忘れて、記憶に残る時間は
しっかりと覚えているだけかもしれない。

友人の顔を見て「こんな所にほくろあったっけ?」と思い
聞いてみると、「ずっと前からあるよ」と言われる。

あるファッションに興味を持って、街へ出てみると、
不思議なくらい、そういったファッションが街に溢れている。
自分が流行の最先端にいるような気がしてくる。
本当は以前からそういうフッションの人たちは街に居たのだ。
興味を持って、初めて見えてくる世界。
人間というのは興味のあるものしか見ていない。
それがスコトーマだ。

それを人は『現実』という。
見えていないフリをしたり、あるいは本当に見えていなかったり。
「私の人生にはAとBの選択肢しかない」と思い込んでいる。
夢を語れば「現実はそうはいかない」という。
果たしてそれは『現実』だろうか?
自分の見たいものしか見えない世界が、
そこに在るはずものが見えていない世界が本当に『現実』だろうか?

僕はそうは思わない。
あらゆる未来があって、選択は自由だ。
今から寝る未来、朝まで起きている未来。
選択は自由。
だからこそ、その先には、あらゆる未来の可能性が
あっていいはずじゃないのか。

その選択の自由を奪っているのは『現実』ではなく『自分』だ。

『現実』を言い訳にするのは勝手だ。
けれど、『あなたの視野で見えるものしか見えないそれ』を
『現実』と呼ぶのは少々乱暴じゃないか。
●が見えないなら少し顔をずらせばいい。
『本当の現実』はあらゆる可能性を持ってそこにある。

それに気が付けば、
僕が「なんにだってなれる」と言った意味が少しは伝わると思う。
それが僕の言った『考え方』だ。
選択の自由から生まれる、可能性の無限。
そういう『考え方』から見えてくる世界がある。
だから、その『答え』である世界を導き出すのは
僕ではなく、あなた自身だ。

自分一人で生きてる訳じゃない?
そんな自分勝手に簡単に自由にはなれない?
人との関係があったって、なんたって『無限』だ。
ちょっとやそっと減ったくらいじゃ
『無限』はなくならないよ。

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photograph Tsubasa Akimoto

過去に何度か、『時間』というものに対する意識を変えてきた。
とりわけ『無限』という言葉について考えることは面白い。

友人が提唱した『休日=無限』という概念は僕の時間に対する
意識を大きく変えた。
自分がそう思う限り、時間というものは無限である。
「翌日が仕事だ」という憂いと共に布団に入るよりも、
今から眠る、という素敵な時間を無限だと考える。
友人との楽しい休日も、その幸せな時間が無限であると考える。
すると世界は驚く程、広がって見える。
「いつか終わりが来る」そんなことは誰だって知っている。
それはもう絶対的平等だ。
だからこそ、意識を広げた方が素敵で幸せである。
絶対的時間の中で、より幸せに過ごす方法。
「馬鹿な」と思うかもしれないが、人のイマジネーションは偉大だ。
色んなことが楽しいものに変わる。
それは子供を見ればわかる、と思う。

いつか、友人と2人で人の行き交う交差点を眺めていた時のこと、
4歳くらいの男の子が点字ブロックを指差して、
「あ、線路だ!」と叫ぶやいなや、「ガタンゴトン」と
点字ブロックに飛び乗って出発進行した。
僕たちは「なんというイマジネーションだろう」と感嘆したのだった。

もしかしたら、僕たちも一度は持っていたものなのだ。
いつの間にやら忘れてしまったもの。
その割に中途半端に憧れを持っているもの。
心のどこかにしまって「ない、ない」と嘆く。

話は逸れたが、つまり、時間というものは無限になる。
すると、可能性も無限になる。
という話はまた別の機会に語ろうと思う。


最近、やっと、『自分がどう在りたいか?』ということを
意識するようになってきた。
嬉しいことに、それは自分が中高生の時に思っていたことに
似ている。根本は何も変わっていないようだ。
どんなキッカケがあったかは覚えていない。
『映画の主人公のように世界を救うヒーローでありたい』
だから、その頃はMr.childrenの『HERO』という曲に
全く共感できなかった。
そもそも、あの曲が親から子へのラブソングだと知ったのは
ついさっきだ。
僕には子供が居ないので、それを踏まえての感想は割愛する。
ただ、今はあの頃とは少し違う価値観を持って生きている、
ということだけは付け加えておこう。

余裕がなくなると、本当に僕は他のことを考えられなくなる。
こんな状態では人を幸せになどできないということを、
痛感させられた。
まずは自分が満たされて初めて、人を助けることが出来る。
支え合うというのはそういうことの往復のように思う。
自分を削って人を幸せにしても、そのうち自分が消えてしまう。
それでは、ずっと人を幸せにし続けることなんてできない。
僕の目指す所はそんなところだ。
一生をかけて、誰かを助け続けたい。

そう思った時、僕に足りないものがわかった気がした。
人を助ける術が僕にはない。
ただ、その美しい結果だけを求めて、技術を習得することから
逃げ続けてきた。
何もせずに、気持ちだけで結果を求めてきた。
「こうあればいい」「こうでなくては」と、それが勝手に叶うことを
期待しているような愚か者だった。

やっと解った気がする。
こんななりで、恥ずかし気もなく言おう。
やはり僕は、ヒーローでありたい。

僕の大好きな映画『スパイダーマン』の中にこんな言葉がある。

『大いなる力には、大いなる責任を伴う』

僕はまだ、大いなる力さえ持っていない。

photograph Ryosuke watanabe

久々に風邪を引いた。
嫌な夢とか、起きた時に悲しくなる夢ばかり見る。
体と心が繋がっているのを改めて感じる。
頭では処理できていても、深層心理の奥で感じていることが
次々と呼び出されているようだ。
頭と心は違う。
それが夢の中では顕著に現れるようだ。
起きた時の自分がブレる。

逆もまた然り。
心の調子が良くないと、体の調子も悪くなる。
普段、何気なく暮らしていると、人は心に頓着がない。
『心が弱い』という言葉で片付けられると思っている。
形のないものに『強弱』をつける。
人は形のないものに形をつけることが好きなようだ。
理解の出来ないものに形を与えることで安心感を得る。
そうやって、とりあえず恐怖を克服してきた。
しかし、それにこだわりすぎた結果、本質を見失っていった。
僕はそう思う。
大切なものの為に箱を作り始めたはずが、『箱をつくる』ということだけが
重要視されるようになって、いつの間にか中身を忘れていった。

『何の為の箱か?』と聞くと、
「わからない」という。「箱をつくることが重要なんだ」と。
そうやって箱を入れる箱を作り続け、まるでマトリョーシカのようになっても
謎の箱を持ち続ける。
こうなったら箱の中身の調子が悪くなった時、もう開けることすら困難だ。
そうして、「よくわからないけど調子が悪い」と嘆く。
周りも箱にしか頓着がないので、「もっと良い箱つくればいいのに」などと
見当違いなことを言う。
そして本人も、それを聞いて「自分の箱づくりが下手で悪いんだ」と悩む。

この中身を意識しているか、していないかで人生は全く違う。
意識していなくても楽しく生きていられる人もいれば、
意識した結果、その重さに耐えられなくなってしまう人もいる。
善し悪しは一概に判断できない。
けれど、
箱の中身の重要性に気付かず苦しんでいる人
この人たちを僕は救いたいと思う。

「心に形はないと言ったのに、中身とは如何に?」と思った人もいるだろう。
確かにその通りだ。
人間の体の中に『心』という機関はない。
なんとなく『心臓』を指してみるが、それは『心』ではない。
しかし、『心』はないのか?と言われれば、当然、ある。
形は、あって、ない。
その『心』が入っているはずの箱に『弱い』というレッテルを貼ることで
苦しんでいる人がいる。
生活の中で、自ら他人と比べて判断をする。
重要なのは、中身だ。
本当は、レッテルなんて貼る必要のないくらい心の形は自由自在だ。

まずは、中身を意識して欲しい。
本質を意識して欲しい。
難しく考えなくていい。
何の為に箱をつくり始めたのか?
本当に大事なことは何か?
それを意識するだけで、箱は取り払われていくはずだ、と思う。


無心で踊っているようで
実際は、思考の旅をしている。
宇宙空間をワープするように
音と光の渦に飲み込まれる。

思考の旅の中で見つけた言葉たちを
おすそわけ。

クラブの中で僕が感じている感覚を言葉にするのは難しい。
僕は元々、『感覚の人』なんだと思う。
いつからだろうか、『情報の人』になってしまった。
本当に大切なことは大体『イメージ』で受け取る。
だから、今も、僕が受け取った感覚を100%伝えることが出来ない。
語彙のない所為ではある。
適切な言葉を見つけることが出来ない。

ある時から、色々なことを言語化してきた。
それは多分、その時、必要なことだったからだ。
感情を言語化、情報化することで僕は僕を形成してきたんだと思う。
そうしてうまくコントロールしている気でいた。
だから、いつも何かが足りなかった。
言葉にできない感情は、情報で形成されたパズルの中では
埋まることのないピースだった。手持ちはない。
未完成のパズルを抱えて生きるのは辛い。
その辛さに耐えられないが故に、パートナーが必要だった。
僕は、曖昧な判断でピースを手にしては、無理矢理はめ込もうとした。
そうして人を傷つけてきた。
形や色をよく観察して「これだ!」と思っても、
僕のパズルより鮮やかで、無い物ねだりの勘違いだったりする。

心のどこかに深くて暗い溝があることに気付かない振りをしていた。
いや、それを埋めてもらおうと必死だった。
情報という他人任せのアイデンティティで形成されている、僕。
このままだと、いつか、その情報が崩れた瞬間に、
僕も一緒に崩壊するだろう。
今まで気付かなかったけれど、心のどこかがその不安を抱えていた気がする。
その危険性を察知していた気がする。

思考の旅の中で、
『私が私であること』の意味が少しずつわかってきた。
もしかしたら、そのパズルは、その1ピースが欠けた状態で
完成なのかもしれない。
あるいは、これから『自分の中』で作られるモノなのかもしれない。
そんな可能性、考えもしなかったけれど、
強い人というのはそういうことがわかっている人なんじゃないか。

色んなことを情報化してきた。
だからこそ、見えないものがたくさんある。
そういった見えないものの強さを感覚で身に付けている人たちが、
僕の周りにはたくさんいるんだと思う。
結局、僕は、また情報化してしまった。
『感覚』と『情報』の間を漂うようになってしまったのは
いつからだろうか。
僕は、感情という得体の知れない渦から逃げてしまった。
怖かったんだと思う。
そしてこれからも、きっとこういう生き方しか出来ないだろう。
常に矛盾をともなって生きる。
でも、僕は少し満足している。

プロフィール
HN:
Ryosuke Watanabe
HP:
性別:
男性
自己紹介:
自分や友人の周辺で起こる日々のアートに注目。
面白いこと、紹介していきます。
興味を持った方、感想等はコメントへお願いします。
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