忍者ブログ
何気なく暮らしている日々の中にある『アート』を紹介していくブログ。
[1]  [2]  [3]  [4]  [5
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


Inside Out Project

日本ではなかなか市民権を得ないストリートアート。
理由は多分、簡単で、それは日本が平和だからだ。
そして、上は社会的な問題をうまく隠す人種で
(最近は色々とぼろが出てきたが、それでも)
下は気付かない振り、あるいは何も考えていない。
音楽や映画のチャートを見れば分かると思う。
恥ずかしいことに自分もその中の一部だ。
大声で正論を言う人が変人呼ばわりされる社会だ、と思う。

日本でのストリートアートのイメージは、ただの落書き、
であると思う。
そして悲しいことに、実際そういうものが多い。
一時期、渋谷の街角で『反原発』系のストリートアートを
たくさん見たが、受け取る側が何も感じていないか、
そもそも「いつもの落書き」だと思ってよく見ることもない。
やる側も受け取る側も、悪い意味での『自己』の枠を
出ることがない。
人を楽しませる、もしくは何かを伝える。
そういったストリートアートの数が少ない。
市民権を得ない理由だ、と思う。

あるストリートアーティストを知って、
『表現』と『メッセージ』の関係性を改めて考えた。
自分には足りないものがたくさんあるな、と。
人それぞれ、足りないと感じることはあるだろうけれど、
『表現』ということにおいて重要なもののひとつが『メッセージ』で、
人によっては「それなくちゃダメだろ」という人もいると思う。
つくづく自分の生きている『世界』の狭さに落胆する。

僕は、表現にメッセージを入れるのが苦手だ。
「怒り」という感情が外に向くことが少ない。
どこか諦めのような気持ちを持って生きているんだと思う。
そして、社会的な、大きな問題にさらされずに生きてきた。
幸せ者なのだ。
平和に慣れた日本は、多くの特殊な問題を抱え始めているように思う。
社会のせいとは言い切れないし、僕は海外に住んだこともないので、
「これだから日本は〜」などと言える立場ではない。
だから、これは僕の生きてきた『世界』から受け取った意見だ。

表現には色々な方法があって、
自己表現、問題提議、人を楽しませる目的、
そういったものが様々な形で混ざって、良いものが出来上がる。
そして受け取る側も、ある程度の知識がないといけない。
それでやっと対等であると思う。
良いものを、ただ「なんか良い」と言って下から見上げるのではなく
(「私は何々様の下で漏れた光にありがたく当たるだけで十分です」
 という人は、そのままでいればいいけれど)
自分もアーティストと同じ場所に立ってこそ、作品の本当の価値が
わかるはずなのだ。

そして、僕たち表現をしたい側も、
同じように、同じ場所に立って、あるいはしっかり梯子をおろして
『自己』の枠を取り払わなければいけないと思う。
色々なことに疑問を持つ目を、自分にも向けて、
良いものをつくる。

ステップアップをする機会が来た。
PR
あるところにピエロがいました。

ピエロはいつも笑顔でした。

そして、街の人気者でした。

けれど、彼の素顔を誰も知りません。

ピエロはいつも笑顔です。

しかし、ピエロは自分の中に
笑顔とは違う感情があることを知っています。

誰か1人でもいい、僕を見てくれる人が居てくれたら。

彼はそう思っていました。

メイクの下の本当の自分を、と。

けれど、そんな人は現れませんでした。

人々にとってピエロはピエロでした。

ピエロのおどけた笑顔を見て、人は笑顔になります。

ピエロは街の人気者です。

しかし、彼の素顔を知る人は誰もいません。

ピエロは愛されていました。

彼は孤独でした。

ピエロは張り付いた笑顔の下で

泣いていました。

ピエロは「助けて」と小さな声でつぶやいて、

そしてまた、おどけた笑顔を振り撒くのでした。

photograph Ryosuke watanabe

『哲学』とか『宗教』の話。
となると、一歩引いてしまう人も少ないくない。
特に『宗教』の話は、人によってはかなりパーソナルな部分であるし、
一部の新興宗教の問題もあってか、多くの日本人は「無宗教」であると
自称しているように思う。
又、逆に、何らかの宗教を信仰している人たちも日本のそういった風潮に
合わせるようにあまり主張をしない。
一部の押しつけがましい人たちは除いたとして、
社会の中で自分が信じているものに胸を張れない、というのも
なんだか悲しい話ではある。
空気が自由を奪うということは、社会に多い。

そんなことを言う私の立場は?といえば、
「宗教には属さない」というスタンスだ。
肯定もしたくないし否定もしたくない。まだまだ知らないことばかりである。
ということで、私自身ほぼ無宗教を謳う人間であるのに、ただ宗教を否定する人を
敵に回してみようと思う。

日本人の多くは宗教的行事を習慣として生活している。
それを掲げて否定するつもりはない。習慣と宗教は違う。
しかしその習慣に対してなんの疑問も持たずに生活するのは、少し違うように思う。
自分で考えることをしないで生きることは否定しない。そういう生き方もある。
しかし、そんな状態で人の信じていることを否定するのはおかしい。
それは、「無宗教」という宗教であるように思う。
そんな皮肉の効く人はたくさんいる。

『生と死』というのが、『哲学』や『宗教』の根本にあると思う。
「私は無宗教である」という人も、身近な人や生き物の死を前に
「脳が機能停止した状態だ」とか「ただのタンパク質の塊だ」なんて
言う人はなかなか居ない。
お墓に行って、手を合わせてその人のことを考えたりする。
「空の上で幸せになってくれているといいな」と思う。
無宗教というものを突き詰めていれば、その行為は矛盾する。
スピリチュアルという概念はそもそも宗教的概念だからだ。

簡潔に言えば、私が思う多くの日本人は、
かなり中途半端な位置にいて、知識もなく、にもかかわらず何故か
当たり前のように宗教や哲学を毛嫌いする。
「それは道徳」だ、という人もいるかもしれないが、その『道徳』は多くの哲学者が
根本を作ってきたはずだ。

ここで、残念なお知らせがある。
あなた方が亡くなった時、大体の人は仏式のお葬式になるだろう。
それは習慣であって、宗教ではない、としておこう。
しかし、『戒名』というのをご存知だろうか?
多くの人がお葬式をする上で形式的に、数万円を払って『戒名』というのを
お坊さんにつけてもらうことになるだろう。
お寺によって値段は様々で、少し調べてみればわかるが決して安くはない。
形式的に名前をつけるだけの為に払うお金だ。数十万することすらある。
卒塔婆などに書かれるのがこの『戒名』である。
この『戒名』とは何かと言えば、出家したときの名前である。
「空海」とか「寂聴」とか、いえばわかりやすいだろうか。
本来は、生きているうちに出家して付けられる法名とか僧名というものだ。
私たちは当然、生きているうちに出家することはないので、
死んだ時にこの『戒名』がつけられる。
出家とは何かと言えば、仏門に入り、仏の元で修行することである。

こんなことを言うと、一部の人からもの凄く怒られそうだが、

つまりあなた方は、死んだと同時に自動的に仏教徒になり、
死んだ後も、修行をしながら、偉い菩薩様や仏様の元で毎日ありがたい教えを
聞いて過ごすはめになる訳だ。

私たちが普段、否定ないしは毛嫌いする『宗教』を信仰する人々は
その点、自ら進んで『生と死』などについて学び、
自分がどういう存在であるのか、ということを学んでいたりする。
私は宗教について肯定する気は全くない。
私が『無宗教』というものの存在に疑問を抱いたように
もちろん、『宗教』というものにだって疑問を抱かずにはいられない。

しかし、何も知らず、考えず、頭ごなしに宗教を否定する人は、
ある一定の『宗教』という世界の中で、どれくらいの割合かはわからないけれど、
たくさんのことを学び、考えて、生きている人がいることを知って欲しい。
どちらが恥ずかしい人間なのかは、考えればすぐにわかることなのだから。


愛だな。
そういうの愛っていうんだよ。
宇宙じゃ知んねぇよ。
少なくとも地球じゃあ、愛って呼ばれるんだ。
覚えとけ。
             —— 映画『Laundry』より。


物語の前後はあえて書かない。
だけど、最近わかったことがある。
考えすぎだったんだ、ということ。
簡単なんだよ。もっと。
シンプルなんだ。
『愛』の定義なんて誰もできないはずなんだ。
言葉で説明できない気持ちがあったっていいじゃないか。
ある歌のタイトルを借りる。

世界はそれを愛と呼ぶんだぜ

それってのは、それのことだよ。
そうそう。それそれ。



不確定要素の集合体。隣のおっちゃんが読んでる新聞の裏面の言葉を、
見た。見ない。読解した。流した。
それだけで未来が変わる。久々にパラレル妄想してる。
バタフライエフェクト。
結論はいつだって不確定要素をセレクトし連続確定させてるだけ。
おい店員。このミラノサンド(C)に何か入れたか?

今まで通ってた道に今まで無かったお店がある。
今まで足を止めなかった人が足を止める。
その作用の連続を味わえるんだぞ。スゲぇことだよ。
きっと俺はサボりにきて、きっと誰かに怒られる。
もう一個の未来だったら怒られなかったのにだよ。
面白い。

ToysADDiCT  店主 テルさん


想像してみよう。
あなたは今、僕のブログを読んでいる。
テルさんの言葉に触れて、何かを感じている。
携帯やパソコンから、目を離して、今いる場所に目を移す。
あなたが今から何をするかによって未来は変わる。
もしかしたら世界すらも巻き込んで、未来が変わる。
あなたの指が1cmスライドしたことによって、
何もかもが変化する。
考えただけでわくわくする。

あなたが、もし今日、自販機で飲み物を買ったのなら
そのうち誰かがアタリをひいて、その人は「ラッキー!」とその日を
幸せに過ごすかもしれない。
その幸せな気持ちが影響して、いつか自分に返ってくるかもしれない。
あなたがいつか何気なく押した機械のボタン。
その壊れる瞬間の1秒を、あなたは左右している。
あなたが、今日見る世界は、
あなたの足がどの方向に向かうかで全く違うものになる。

未来は無限大に広がっている。
『現在』という点から枝わかれになった道が、無限に存在する様を
想像して欲しい。
「できない。」と決めつけていた事にすら、道はある。
いつだって『存在』している。
人間は、見たいものしか見られない生き物なのだ。
興味がなければ、そこにある小さな埃は目に映らない。
気付いていないだけだ。あるいは、見えない振りをしてるだけだ。
「どうすればいいか?」
簡単だ。『想像』がその盲点を外してくれる。
『叶える』ことがすべてじゃない。もちろん大事だ。
だけど、まずは正直でいることだ。
純粋な気持ちで叫べば良い。
それは言い訳でも嘘でもないのだから。

あなたがその可能性に気付いた時、きっと、
世界を救うスーパーヒーローにだってなれるはずだ。

プロフィール
HN:
Ryosuke Watanabe
HP:
性別:
男性
自己紹介:
自分や友人の周辺で起こる日々のアートに注目。
面白いこと、紹介していきます。
興味を持った方、感想等はコメントへお願いします。
最新記事
(05/18)
(08/09)
(06/25)
(06/18)
(06/17)
P R
[1]  [2]  [3]  [4]  [5
忍者ブログ [PR]