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何気なく暮らしている日々の中にある『アート』を紹介していくブログ。
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My Skate board

ある日のスケート中、何気なく友人がいる方を見てみると
友人が酔っぱらいに絡まれていた。
しきりに「ぶっ殺すぞ!ぶっ殺すぞ!」と言われていた。
面白かったのでしばらく眺めていると、
友人もまともに相手するのも面倒だったのだろう、
「へい、すみません、すみません」と謝って、その場は終わった。
松田優作ばりの、へいこらぶりだった。本当は金狼なのに。

その後、喫茶店に寄ってご飯を食べていると、その話になった。
僕も「ぶっ殺すぞ!」の部分は聞いていたが、相手は他にも
「お前らがスケートボードを自由にやるのは良いが、俺の前でやるな」
などと意味の分からないことを言っていたようで、
(そもそもお前が通りかかったんだろう、と)
なかなか面白いおっさんだった。馬鹿という意味で。
友人は小学生の頃から「ぶっ殺す」という言葉を使う人間を
不思議に思っていたという。
どうせ出来ない癖に何故言うのか、と。僕もそう思う。
友人曰く、
であれば、いっそ「ぶん殴るぞ」と言われた方が現実的で怖い。
まぁ、確かにそうだ。

僕はその話を聞いて、ある漫画のキャラクターを思い出していた。
ジョジョの奇妙な冒険 5部における、敵キャラクター。
プロシュート兄貴だ。兄貴はマフィアである。
主人公チームに一泡吹かせられ、「ブッ殺す!ブッ殺す!」と
喚く後輩に対しての兄貴の言葉は、敵キャラクターであるにも関わらず、
多くのファンの心を掴んで離さない。
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真っ暗闇の中に、ぽつんと1人。
いや、魂のようなぼんやりした光。
それがひとつ。
周りを見渡しても何もなく。
自分だけがひとつ、浮いている。

たまに、そんな気持ちになる時がある。
その暗闇のなかには、ちゃんと家族や友達や知り合いがいて
「僕は独りだ。」なんて幻想はとっくに捨てた。
幼少期の経験や成長過程で、そうなるであろう理由を探しても
あまり思い当たらない。
そういえば幼稚園児の頃から僕は1人になるのが怖かった。
カルマから来るものであれば納得できるが、
前世というものに懐疑的である以上、それは否定しておく。
そうすると、母の愛か?とも思う。正常な母の愛。
あふれ過ぎず、足りな過ぎず。
成長すれば、求める先は変わる。正常に。

自分が自分であるというアイデンティティの欠如。
自己肯定力、という意味では全くそれを感じない。
僕は自分を誰よりも肯定しているし、
だからこそ、他人にも肯定されたいのか?
と、自問自答する。
私が私であることは、自身で証明できる。はずだ。
では、何故、孤独を感じるのか。

photograph Tsubasa Akimoto

どんなに綺麗な石を持っていても、
日常の様々な色に染められて、濁っていく。
でも、たまに
嘘みたいに純粋な光で、浄化され、
元の透明で綺麗な石に戻る瞬間がある。
その時を見逃してはいけない気がする。
そして、濁った石も、捨ててしまったら、
その瞬間には出会えない。

word Ryosuke Watanabe


art Ryosuke Watanabe

たまにこうして絵を描くことがある。
真っ白なキャンパスに何も計算しないまま、色を塗りたくっていく。
この時は夏だったので、上半身裸で、お気に入りの音楽を聞き、
踊りながら描いた絵だ。
テーマは確か、『宇宙の始まり』かなんかだった。
既にこの時 何を考えていたのか忘れていることが悲しい。
思い出した、『宇宙の始まりの混沌』だったかな。

とにかく僕の場合、思いつくままに、描くのが楽しい。
筆も使うし、時には手も使う、絵の具の種類もバラバラだ。
煙草が好きなので、灰なんかも塗りたくったりする。どうせ落ちるのに。
スプレーも使う。要はなんでもありだ。

ゴールを決めて描くよりも、偶然にできた絵が好みだ。
というのは、僕の場合ゴールを決めてしまうと、その理想を実現する程、
技術を持っていないことを知っている。
そうして、途中でがっかりして放棄してしまう。
であれば、最初から何も決めずに自分の気の赴くままに筆を走らせた方が
予想に反して良いものができる、という訳だ。

人生にも案外そういうことが言える、ということを知ったのは最近である。
ある博士によれば、人間というのは本能として現状維持を計る、という。
自己イメージと現実が違えば、自分の自己イメージに合わせようとする、
というのである。
それは、予期せず良い結果になったとしても起こるのだとか。
つまり、例えば、
『テストでいつも60点の自分が、90点を取ってしまった場合、
 自己イメージに合わない。そこで無意識に次のテストで30点を
 とってしまう』

「そんな馬鹿な」、と思うかもしれないが、まぁ聞いてほしい。
現状維持とは、生物が生きていく為の本能である、ということである。
生きていく為に呼吸をしたり、まばたきをしたりする。
そういう次元の中で本能として備わっている、と考えてみる。
先ほどの例はすごく極端なので、こう考えるとわかりやすいかもしれない。
自分にとって予期せぬ成功や良い結果が出た時、「自分らしくない」と次の
ステップに進むことを恐れてしまうということはないだろうか?
博士曰く、
『部下や後輩に何かを頼むと"やらない理由"をもの凄く"クリエイティブ"に
 考えてくる。なぜクリエイティブになるのかといえば、先ほどの
 自己イメージを保つ為に、無意識に脳が働くからだ。』
と。

例え「こうなりたい」というゴールがあったとしても、その働きによって
見えてくるものが限られてくる。
じゃあ、どうすれば良いのかと言えば、答えは簡単で、
自己イメージを高くすれば良いのだ。
ただ、高くするといっても、具体的にイメージするのは難しい。
現実の自分が立ちはだかる。現状できることは多くない。

ここでやっと、絵の話に繋げよう。
先ほど僕は、「偶然にできた絵」といったがこれは正確ではない。
僕もただ無心になって絵を描いている訳ではない。
「明るい感じが良いな」とか「こんな気持ちを表現しよう」とか、
そういったイメージはある。これが大事なのだ。
理想の、現実的な完成形があると視野は限られてくる。
どうしていいか、わからないことも多くなる。
自己イメージと理想のイメージに差があればある程、できない自分が
現れてくる。
であれば、その理想のイメージにある程度、形をつけなければ良いのだ。
抽象的な自分、そこに辿り着いた時の「幸せな自分」。
するとそんな「幸せな自分」という自己イメージに近づけようと、脳は
クリエイティブに働く。と、博士は言うのである。
なんだか少し、博士の言っていることを正確に表現できていない気がしてきたので
これくらいにしようと思う。

ここからは、あくまで僕の言葉として、
と、その前に言っておかねばならないことがあった。
写実的な絵や、きちんと計算して絵を描いている人を批判している訳ではない。
今回は、僕の絵の描き方と良い人生の生き方を無理矢理こじつけた結果、
こういう話になった。
理想というものを具体的な形で捉えるのは、それを実現していく過程で
凄く根気と努力のいることだと思う。
僕が言いたいのは、
世の中にはそれが出来る人と出来ない人がいる、
もし、「自分は出来ない人だ」と思う人がいれば、
まず、「出来ない人がダメ」だなんて風潮は一旦捨てて、
理想を抽象化しよう。
そうやって理想を抽象化して、形のない思想に変えられた時、
いつの間にか、「自分」は「出来る人」に変わっているはずだ。


参考:http://www.nicovideo.jp/watch/sm18596093

苫米地英人博士
認知科学者(計算言語学・ 認知心理学・機能脳科学・ 離散数理科学・分析哲学)
etc.
http://www.hidetotomabechi.com

paper clay Ryosuke Watanabe


Don't think!Feeeel!!
ということで、前記事のこぼれ話。長編。
友人と自由について話していた時に出た、
「考えるな、感じろ」
という言葉。しかし前記事でも書いた通り、
これは、『自由』とは直接関係のある言葉ではない。
ではこの時、Bruce Leeが何について説いているのかと言えば
武道家としての心の持ち方だ、と僕は解釈している。
ただ、彼がかなり真理に近い思想を持っていたからこそ
この言葉は大きな意味で色々な方面で汎用できる言葉となった。
つまり、人としての心の持ち方、である。

ところで、この言葉の、前後を含めた真意を探る為に
そのシーンを見直していた所、
字幕と、僕の感じた印象が少し違っていたので、
それについて解説しつつ、この言葉を解釈していきたい。
僕は英語なんてからっきし出来ないので、間違っていたら
ごめんなさい。

練習試合を終えたLeeの元に、弟子が現れる。
挨拶の後、Leeは弟子に向かって『kick me-蹴れ」という。
弟子が蹴りを披露した後のLeeの言葉は、
『we need emotional content』だ。
字幕では「五感を研ぎ澄ませるんだ」である。
少し違和感がある。この違和感が証明されるのが次の、蹴りの後だ。
「もう一度。」とLeeが言った後、弟子は表情を険しく、
力を込めて、蹴りを繰り出す。すると、
『 I said emotional content. not anger!』
「五感を研ぎ澄ますんだ。怒りではないぞ」とLeeは怒る。
五感を研ぎ澄ませろ、と言った結果、弟子の蹴りが怒りの蹴りになる。
これがよくわからない。
それは『emotional content』「五感」と訳したからだと思う。
google翻訳すると、この言葉は「感情的な内容」となる。
つまり、Leeが最初に言ったのは、
「私たちに必要なのは感情的な内容だ」ということである。
これで、彼が怒られた理由がわかる。
弟子の彼は「感情的な」という言葉を「怒り」と捉えた訳だ。
ただ、ここでわかるのは、これを字幕にするのはかなり難しい、ということだ。
Leeが弟子に感じてほしかったことの真意(つまり"感情的な"という言葉の意味)が、
「五感」という言葉に近いからである。
ただし、厳密に言えば、Leeが言いたかったことは「五感」という「感覚」から
感じ取った「心の感覚」が大切だ、ということのように思う。

そして、その言葉を聞いて弟子がもう一度Leeと手合わせする。
弟子の素直な蹴りを受けてLeeは「そうだ。何か感じたか?」と問う。
弟子は「そうだな・・・」と考える。Leeが弟子の頭をはたく。
ここで出てくるのが、
『Don't think!Feel!!』「考えるな、感じろ」
である。
五感を使い「心の感覚」で蹴りを出せた弟子だったが、まだその感覚を
掴めてはいない。何を感じた?と問われ、考えてしまう訳だ。
そして次にくるのが、空を指差しながらの
『It is like a finger pointing away to the moon』
である。字幕では「月を指差すのと似たようなものだ」と訳されていたが、
これもまたニュアンスの違いが出ている。
「それは月を差す、指のようなものだ」と僕は解釈した。
ただしこれは、『it is like a〜』の『it』が何に対してなのかで変わってくると思う。
その指に注目している弟子を、Leeはまたもはたく。
「指に集中するんじゃない、その先の栄光が得られんぞ」と。
これはまぁ、
『Don't concentrate on the finger or you will miss all that heavenly glory』
で、僕訳は「(略)さもなければ君は天の栄光を失うことになる」と、
反対であるものの間違いではないように思う。
「得られない」ということと、「失う」ということは若干の違いはあるが。
問題は「指」の話だ。
「月を指差す」という「行為」を「のようなものだ」というのと、
「差す指」自体を「のようなものだ」というのでは、やはりどこか違う意味を
なしてくるように思う。
「指月」という言葉がある、
「月を示そうと指さしても、肝心の月を見ないで指を見てしまう」
「言葉は教えを示すものであり、言葉自体が教えではない」
ということである。
わかりやすく例えるとすれば、
"ある著名な料理人の元に弟子たちが集い、作り方やレシピを教えてもらった
 とする。弟子たちが「この包丁の使い方は〜」とか「この食材は〜」とか
 いくら議論した所で、料理をしなければ上手くはならないよ"

というような感じだ。
つまり、何を感じたか?と聞かれて、弟子が考えてしまうのは、
「指に捉われて」いるんだ、と。
「形」に重きを置かず、「心の中身」「形の意味」を大事にしろ、
とLeeは言いたかったのだと思う。

世の中には素晴らしい言葉、名言がたくさんある。
しかし、僕が感じる世間のイメージは、その言葉を大事にしたところで、
「良い言葉だな」と胸にしまうだけで満足している節があるように見える。
結局は「こうであれば良い」という枠を出ない。
だから嘘くさくなる。
名言や良い話に感動したのであれば、本当に目指すべきなのは、
その言葉を真に理解し、そして自分自身の解釈を出して、
つまり「名言」という言葉の羅列から、本当に自分にとって大事な意味を見つけて
言葉に捉われない、自分の道を歩くことなんだと、思う。

そうすれば、それは「私」になり、「言葉」を忘れても、その信念は
ずっと「私の中」に残り続けるはずだと思う。

参考:http://www.youtube.com/watch?v=2d5o8d1kitM
プロフィール
HN:
Ryosuke Watanabe
HP:
性別:
男性
自己紹介:
自分や友人の周辺で起こる日々のアートに注目。
面白いこと、紹介していきます。
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